藤原山慈眼寺縁起

 寺伝によると、この寺は奈良朝の末期に日光を開山した勝道上人が慈眼観音堂として建立したと伝えられている。また、日光の中興の祖、天海大僧正(慈眼大師)は、会津高田の出身で会津西街道を幾度となく往来し、大変好まれた寺であったと言う。安置されている十一面観音は、勝道上人御作の一体とも言われているそうだ。幕末の戊辰戦争では、慶応四年六月二十六日、小原沢の戦闘以来、官軍を寄せ付けなかったが、奥州白河口が突破され、藤原駐留の会・幕軍は、官軍の追軍侵攻を遅らせるために、橋を壊し,民家をことごとく焼き払った。このとき寺も炎に包まれ、燃え盛る本堂の中から女性の悲鳴を聞いた会津藩士、中野善六と言う人が飛び込み救い出した。ところが女性ではなく十一面観音様だったと言う。この不思議な霊験の力を持って現存いる。「おさすり地蔵尊」も合祀されていてボケ封じにご利益があるといわれ参拝者が後を絶たない。四十を過ぎるとボケが始まると言われています。あなたも是非ご参拝を…特別天然記念物のモリアオガエルも棲息している。
                               問合せはーTEL0288-77-484 横山真康住職
 宝塔山清隆寺

 およそ190年昔、小川泰堂と言う人が『日蓮大士真実伝』を書き残している。寺に保管されている全五巻のうち第三巻の中ごろに藤原宿がでてくる。那須・塩原を経てこの里に辿り着き、村の長、星次郎助宅に逗留し師壇の契りをかわしたとある。上人は近くにあった大きな石に腰を下ろし、村人を集めて説法をしたそうだ。その石は『日蓮上人腰掛け石」と名付けられ現存している。日蓮上人旅立ちの日、七十を越えた次郎助は、『やがて冥土へ行くことになるが誰を導師に…』と教えを乞うと、上人は、南無妙法蓮華経と書いた導師旗に加え「南無一名上行菩薩、南無二名無辺行菩薩、南無三名浄行菩薩、南無四名安立行菩薩」の四菩薩に導かれるようにと、教えられたことが書いとある。日蓮宗では現在も葬儀の際、この四菩薩を笹竹にしるす,仕来りが続いていると言う。まさに、四本旗の発祥地なのである。
                              問合せはーTEL0288-77-0487 石井恵行住職
まほろばの民  藤原猟師隊
                                                       作曲 藤田正典

 全国に名だたる鬼怒川・川治温泉の地に新しい文化の芽が育んでいる。
現在、温泉地として、全国屈指の賑わいを見せているが、歴史的史実の少ないとされているこの地に、今を去ること百三十年前、天下にその名を轟かし、振るい上がらせた、郷土の猟師隊が存在したのである。
今は、この猟師隊について詳しく語り継がれることなく、遠い過去の事実として葬り去られようとしている。
そこで、当藤原町が誇れる歴史的事実として、この猟師隊スポットを当て蘇らせようと試みるものである。鳥羽・伏見の戦いに代表される戊辰戦争は、歴史家だけでなくとも、多くの国民の知識として知れ渡っている。実は、この猟師隊がその戊辰戦争ですざましいまでの活躍を見せたのであった。
旧幕府軍が徳川家に忠誠を誓ってきた二百六十有余年の「ともしび」を消さんと全国各地で新政府軍に最後の抵抗をみせた戦いであることは言うまでもないことである。時の流れはむなしく、天下の大勢は明治政府の創設に激流の如く迫っていった。その時の流れにあえて逆らい、ただただ徳川家への忠誠心をもって新政府軍と一戦を構え壮絶な戦いが繰り広げられたのである。当地藤原町においても、大原、滝村、小原、横川は、特に激戦地としてその名を残している。日光の地には、日光山守護の尖兵として日光奉行の指揮を受けていた猟師隊が存在していた、そのなかでも射撃の腕が最も優れていたのが、当藤原、そして栗山猟師隊であった。
土佐藩、板垣退助が、聖地日光争奪の際、最も恐れていたのがこれらの猟師隊の存在であったことは史実に明らかである。それゆえに板垣退助は藤原口進撃を断念した。だが板垣の忠告を無視して北進した後続諸藩隊は藤原猟師隊の反撃によって進軍を阻止され、ひいては会津鶴ヶ城を一ヶ月もの長期にわたって持ちこたえさせた一因となった。この猟師隊の活躍ぶりは太鼓と鹿笛を合図に一糸乱れず一騎当せんの勢いをもって、その使命を貫いたのである。父祖伝来の服装で表舞台での華々しい活躍とは反対に地味で、ただだひた向きに猟師隊としての誇りを各地の戦いで見せてくれたのである。我々にはこのような史実にもとずいた猟師隊の存在を確認すると共に永く後世にその存在を伝えたいと願わずにはおられない気持ちで一杯になってくるのである。
その気持ちを戊辰太鼓に託してご披露する次第である。この猟師隊の 誇示するイメージ化した戊辰太鼓が今後、わが藤原町の誇れる郷土芸能の一つとして育って行けるよう皆様の格別のご指導とご理解を心から願ってやみません。

筆者 藤原町立藤原中学校  斎藤孝雄教諭
監修 今市市歴史民俗資料館専門委員  田辺 昇吉
参考文献 田辺昇吉著  『日光山麓の戦い』
       立松和平   『二つの太陽』
新名所誕生!
ボケ封じ祈願の寺として名高い藤原山慈眼寺に七福神がお目見えした。
日蓮宗立教開宗750年記念として建立。来春入魂の予定。
静かなたたずまいの藤原山慈眼寺全景
:現世住職
横山真康上人
十二神社
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写真上は、代々村長(むらおさ)の
星七郎さん宅。
豪族藤原氏の流れをくむ地名は昔「ふじわら」と言われていましたが、星次郎町長のとき「ふじはら」と仮名使いになった。今「ふじわら」で残っているのは新藤原駅のホームだけ。七郎さんは大分反対したそうだが、「わら」は田舎くさいと言うのが理由だそうだ。
東武電車と会津西街道の間に「勝膳碑」。馬のお墓。昔は会津西街道を馬の背に荷物を乗せて運んだ。死んだ馬は丁重に葬られたが道路改修の際一箇所に集められ合祀された。現在、藤原町文化財に指定されている。