天和3年(1683)9月1日、「日光大地震」が発生した。国道121号線「仏の沢」にある国土交通省の看板にはマグニチュド7,3の地震。『町史』によると、マグニチュウド6.8とありますからかなりの大地震でした。葛老山の一部と戸板山が崩壊し、男鹿川を堰き止めてしまったのです。江戸から日光街道をそして今市より会津西街道を北上すると距離にして五十里程のところを街道もろとも突然遮断してしまったのです。五十里村し言う宿場は直撃は受けなかったものの、男鹿川と湯西川、大塩沢などの流れが堰き止められ、日毎に水嵩を増し高台の三軒家を残しことごとく水没したしまいました。五十里地蔵岩も埋没し水辺は、独鈷沢村中井原の曲がり角までに達したと言う記録があります。そのため三依村と川治、藤原、栗山地方との往来ができなくなり、代わって船便になったそうですが、地蔵岩が暗礁となり、ときおり船が乗り上げて困難をきたしたようです。このことにより、大勢の人馬、駕籠などの通行が不能となって、会津、北越、山形、秋田地方の大小名は、江戸幕府への参勤交代に上下する通り道を上三依村、尾頭峠の頂上より地蔵曽根づたいに、塩原湯元温泉に降りて、それより赤川伝いに登り旧高原に至ったそうです。その頃の湯元温泉は、45軒もの宿屋などがあって大変賑わっていたと古書には書かれています。また、その当時の高原は大名の捨扶持を受ける他に、上下する旅客の宿泊などで実に豊かな生活をしていたと伝えられています。公用道として軍事上や廻米輸送のために重要視してきた会津藩にとって、街道の途絶は大きな痛手でありました。会津藩主の松平様は、家臣で五十里の関筆頭役人、高木六左衛門に命じて、水抜き工事を行いました。莫大な巨費を投じたのですが、100万トンとも言われる巨岩に阻まれ掘割工事は難行をきわめ、ついに完成を見ずにして予算を使い果たしてしまいました。高木六左衛門は、その責任を一身に負い、布坂山の頂上で切腹自殺をしたのです。今では、その頂上に「六左衛門の墓」と祀られていますが、展望台やドライブインが閉鎖されたことによって、残念ながら立ち入り禁止になっています。
享保8年(1724)8月10日、長雨により、42年間堰き止められていた五十里湖が崩壊(現在の海尻橋)して湖水が一度に決壊氾濫したのですからその状態は物凄く古書にも『雲か山かと疑うが如し、鬼怒川沿岸の土地、住宅、人畜の惨禍は言語に絶せり』と、その激しさと仰天ぶりを形容しています。この洪水のため、藤原の宿の庄屋、星家も流されて、それ以前の書き物などを、ことごとく失い会津藩をはじめ諸大小名の本陣(宿泊)記録が現存しないと、当世、星七郎翁は説明しています。また、40年ほど昔、星家が普請をしたときに、川砂と一緒におびただしい古銭が出土したが、その洪水で上流から流されてきたものではないかと話してくれました。一時は宇都宮の方まで水浸しになったと藩の記録にあると聞いていると言う。
しかし、その濁流は川底を洗い流し数万年前の溶岩を洗い出し、龍王峡の奇岩怪石の連なる渓谷美を造り鬼怒川・川治温泉の自然の造形美を作り出したものと思われます。すっかり空になった五十里湖は、徐々に昔の姿をとりもどしてきました。海尻より300メートル程下流の穴沢との合流点に「御判石」(ごはんいし)と言われる大岩があった。古書によると二間四方とありますが、高さ12メートルもの巨岩は流されずに残ったようです。この石を境として上流は幕府の領地ながら会津藩が預かり統治した南山お蔵入り領。川下の右岸が、日光御神領、左岸は宇都宮藩領だったそうです。現在は、昭和31年(1958)に五十里ダムが完成し水没して見ることができません。その他、こじき岩などの名所も水没した。ダム建設にあたっては、地元民に、中禅寺湖のような華やかな観光地になるのだからとの説得に応じたことを悔やんでいる。と川治温泉で旅館を営む大塚敏男さんは、昔を偲んでこっそり話しをしてくれました。
7年がかりで完成したダムは、海尻より1.5kmほど下流に、重力式ダムが建設されました。高さ112m、幅267mで完成当時は日本一。総工費48億円(現在の価値に換算すると800億円)。殉職者28人の犠牲を伴った大型ダムであったことを、ダムサイドの案内ガイドエンドレステープで放送しています。五十里の宿は再び水没し、住民は湖畔に8軒を残すだけで離散してしまいました。 2002.11 克夫記

第七話